大判例

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東京高等裁判所 昭和58年(う)506号 判決

被告人 松原裕純

〔抄 録〕

(一) まず、原判決が認定した罪となるべき事実は、次のとおりであり、この認定に疑念を狭むべきところはない。

すなわち、被告人は、昭和五七年五月一〇日午前一一時三分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、東京都大田区池上四丁目二七番一五号先の信号機により交通整理の行われている交差点を仲池上方面から池上駅方面に向かい直進するにあたり、対面信号機が赤色を表示していたのであるから、同信号機の表示する信号に留意し、これに従って定められた停止位置で停止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、右信号機の表示する信号に留意せず、右赤色の信号表示を看過して時速約三五キロメートルで交差点に進入した過失により、折から左方道路から信号に従い進行してきた赤間良一(当時五一歳)運転の自動二輪車に自車を衝突させて同人を路上に転倒させ、よって、同人に加療約六か月間を要する右下腿骨開放性骨折等の傷害を負わせたものである。<中略>

(四) 以上の諸点を基礎として、被告人の本件事故当時における刑事責任能力について検討する。

まず、福島教授の鑑定書に明らかにされているとおり、精神分裂病者といえども、常に信号の意味が分らなかったり、これにまったく注意が向かないというものではなく、欠陥の程度にもよるが、むしろ交通法規に従った運転をする場合が多いと認められるのであるから、精神分裂病者であるという理由のみから交通事故に関しその刑事責任能力を否定するのは相当でない。被告人の場合、慢性の経過をもつ精神分裂病者であることは明らかであるが、本件事故当時は、三か月前の急性増悪後薬物療法などにより病勢が鎮静した時期にあたり、不完全ながら寛解状態にあったと認められる。また、被告人は、本件事故前の約八年間の自動運転歴を通じ、一度も事故を起しておらず、同乗したことのある家族は被告人の運転に不安を覚えることはなかったと述べており、本件事故当日もかなり通行量の多い道路を正常に運転していたことがうかがわれる。さらに、被告人は、本件事故の直前、対面信号機が黄色と表示しているのを見て、そのまま交差点を通過しうると軽信し、信号が赤色に変ったことを見落したまま進行したため本件事故を起したものであるから、その不注意の程度は高いが、通常の運転者には考えられないような異常な程度のものとは認められず、右の不注意を除くと、衝突直前被害者の自動二輪車を発見して急ブレーキをかけるなど、状況に応じた通常の運転態度をとっている。こうした事情を総合すると、本件事故は、被告人が信号に注意を向ける能力を欠いていたり、その意味を理解して適切な運転を行う能力を欠いていたために起ったものではなく、被告人がたまたまわずかの時間信号に対する注意を怠り、赤色信号を見落したために起ったものとみるのが相当であり、したがって、本件事故当時被告人が心神喪失の状況にあったという弁護人の主張は採用することができない。

しかし、他面、前記鑑定書によると、被告人は、本件事故当時、精神分裂病に基づく中等度の欠陥状態と薬物の影響により、注意力、認知機能、機敏性が著しく低下、動揺した状況下にあったと推定されるのであり、この推定を覆しうる証拠は存在しない。そうすると、被告人が本件事故直前に赤色信号を見落して交差点に進入したことについては、右の注意力又は認知機能の著しい低下や動揺が関与していたのではないかとの合理的な疑念があることになる。検察官は、被告人が過去約八年間自動車事故を起しておらず、通常の運転者と変わりのないような運転を続けてきたことを指摘し、これこそ被告人の注意力や認知機能が著しく低下していなかったことの明らかな証拠であると主張するが、注意力低下の程度は時間によって著しく動揺することが右鑑定書に指摘されており、また注意力や認知機能に著しい低下がみられる者でも直ちに事故を惹起するわけではなく、当人がその注意力や認知機能を前提とした運転をし、又は他の事情が幸いして、相当長期間事故を惹起せずにすむことも十分に考えられるのであるから、右のような事情をもって被告人が完全な責任能力者であることの証跡とすることはできない。結局、本件の場合、被告人はその行為につき過失責任を問う前提となる注意能力の点において通常人より著しく劣っており、それが精神分裂病に起因していると考えるべき合理的な根拠があり、かつ、そのため事故に結びつく注意義務の懈怠が生じたと考えるべき合理的な疑念があるというほかはない。したがって、被告人は本件事故当時注意能力が著しく減退した心神耗弱の状態にあったと認めるのが相当であって、完全責任能力者であったとする検察官の主張も排斥を免れない。

(小野 香城 長島)

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